一般社団法人  雲雀丘安田邸プロジェクト
Association of Project for Yasuda Residence in Hibarigaoka

MENU

小林一三氏と安田辰治郎との関わりの考察

基本的な考え方。

ここで述べている事は、歴史的事実として担保された内容と、そうでないものが混在しています。
事実は⑴山西家が創設した北浜の料亭「淡路屋」は実在し、⑵市電の開通に伴い廃業し、箕面に土地を少なくとも5か所買い、箕面公園に旅館も2件経営していた。⑶現在は5代目山西輝和氏が北浜にある「忠次郎」ビルを所有している。⑷「淡路屋」は三井の関連の方々の贔屓の料亭で、若き日の小林一三氏が得意にしていた。「淡路屋」二代目の山西喜一郎氏とは慶応の先輩・後輩であった。⑸小林一三氏は、三井銀行を辞めて阪急電鉄の実質的な創始者に成る迄、3回大阪に赴任している。辞めて大阪に来た時には、「淡路屋」の女中頭「お琴さん」が大阪駅に出迎えている(逸翁自叙伝)。
NARRATIVEは、⑴小林一三氏と安田辰治郎は13歳年が離れているが、実父が富裕層で船で「淡路屋」に通い、小林一三氏と知り合ったものと思われる。当時は小林一三氏は人脈作りに励む若き銀行員、実父は堂島の富裕層だった。⑵山西喜一郎氏の妹が、辰治郎の妻テルだが、其の頃には、辰治郎も小林一三氏の知遇を得ていたのではないか?⑶山西喜一郎氏が箕面に土地を買い求めたのは、小林一三氏の勧めではないか?喜一郎は13歳年下であり、慶応義塾大学へ進み、東京銀座の料亭の娘ケイを嫁とした。これも小林一三氏が繋いだ?当時は「箕面有馬電気鉄道」であり、小林一三氏は集客の為、箕面に「動物園」を作り、山西喜一郎は公園に旅館を2件経営した。残念ながら「動物園」は不評で、宝塚に移転した。⑷以降、安田辰治郎の人生には、三井物産への就職・ニューヨーク支店への移動、その後の「紐育芝川」社長就任、雲雀丘花屋敷の土地購入・邸宅建設まで、小林一三氏との関わりが類推される事象がたくさんある。

以上を、中之島の大阪府立図書館等の公的私的施設にある古文書や文献・船場北浜の古老はじめ関係者へのヒヤリング・当時のはがき日記などから解き明かしたいと考えています。資料は散逸し、阪急文化財団・宝塚市立図書館等にもお世話になっていますが、現在のところ有力な手掛かりは得られていません。知見をお持ちの皆様、ご連絡お待ちしています。

山西家安田辰治郎と小林一三氏

山西家と安田辰治郎

小林一三氏