一般社団法人  雲雀丘安田邸プロジェクト
Association of Project for Yasuda Residence in Hibarigaoka

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安田家と山西家

安田家と山西家の歴史

安田家

以下は、安田敏子氏作成の家系図と覚書に依るものです。
なので事実とは異なる部分は相当あると思います。敏子さんのNARRATIVEです。
安田家の先祖は元禄14年(1701)に京都府相楽郡で没した山形屋仁兵衛迄遡る事が出来ました。これこそ本当かどうかは?です。
辰治郎の祖父安田仁兵衛は相楽郡僧坊村で明治3年(1870)75才で没しています。
父定治(初代定助)は3男2女の次男、大正5年(1916)5月21日大阪市で没、79才でした。
生業は紙問屋で、小作地・借家を持ち、後には金融業に乗り出しました。
明治後半から大正にかけて、例えば3200円の証書が数通残されており、かなりの資産があったと思われます。一説には、明治時代の1円は現代の2万円・大正時代の1円は現代の4千円と言われています。母キミは明治35年(1902)3月没(54才)。父の妹スエは久村家へ嫁ぎ、その息子直吉が安田邸の大工として階段や欄間を手掛けています。
辰治郎には姉が4人おり長男として生れましたが、家業の紙問屋は4女シカの夫が安田孝七として継いだ様です。子どもはなく昭和37年(1962)亡くなっています。

山西家

山西家の家系は、テルの祖父山西忠次郎以前は不明ですが淡路島の生まれです。
大阪へ出て明治3年(1970)に「淡路屋」を開業しますが、子供はなく養子をとります。当初は苦労した様ですが、「勤勉」に「贅沢を慎み家業に精励して」明治27年(1994)には「高位高官が引きも切らず訪れる名旅館」と世間で言われる様になりました。生駒山御天尊のご利益で繁盛したと考えた事から「家訓」を遺しています。これは現存する様です。
養子の2代目忠次郎は妻タネとの間に三男二女を設けますが,明治32年(1899)に亡くなり、その後は母タネと後に妻ケイが店を切り盛りしました。
3代目喜一郎は明治19年(1986)生まれ、二代目没時は13歳、明治44年(1911)25歳の時に市電開通による道路拡張で敷地が狭小になり、41年続いた「淡路屋」を廃業しました。明治41年(1908)、箕面に土地を買ったのもこれを見越したものと思われます。奇しくも箕面・有馬電鉄道は明治43年(1910)年に開通しています。