二人の出会い
安田辰治郎と妻テルの生涯 安田邸当主だった安田辰治郎は1886年(明治19)に大阪市東区豊後町で紙問屋を営む 『安田定助商店』の長男として生まれましたが、母は辰治郎が16歳の時に亡くなります。その後、辰治郎は大阪高等商業学校(旧大阪市立大学)に入り、その間の1903年(17才)には 『第五回内國勧業博覧会』のパスポート券を購入して何回も観に行くなどしています。 辰治郎がそこで何を観て、世界とどう繋がっていったのか‥青年の好奇心を想像します。 1908年(明治41)に卒業した辰治郎は三井物産大阪支店に入社しました。そして 1911年(明治44)25才の時に三井物産紐育支店へ渡米する事になります。
そんな頃に将来の妻となる6才年下のテルはと言いますと‥ 大阪北浜の料理旅館『淡路屋』の次女として育ち、4才違いの長女タマと同様に かなりの器量良しでした。(それを物語る一文が小林一三の『一三日記』にも出てきます)
大阪の土佐堀川を挟んでの南北に住む2人が結婚して、紐育(ニューヨーク)生活を経て 現在の雲雀丘の地にヨーロッパ建築の影響を受けたアメリカンスタイルの洋館を建てるまでに‥ まだまだ語り尽くせないお話が沢山あります。 膨大な手紙や写真の数々を、現在プロジェクトの 資料班がジグソーパズルの様に繋げる作業をしています。(順次お知らせ予定)
明治後半から大正初期にかけて日本人が海外へ多く進出したという時代に,二人を乗せた大船は‥記憶の旅へと今再び出発した様です。
To be continued
そんな頃に将来の妻となる6才年下のテルはと言いますと‥ 大阪北浜の料理旅館『淡路屋』の次女として育ち、4才違いの長女タマと同様に かなりの器量良しでした。(それを物語る一文が小林一三の『一三日記』にも出てきます)
大阪の土佐堀川を挟んでの南北に住む2人が結婚して、紐育(ニューヨーク)生活を経て 現在の雲雀丘の地にヨーロッパ建築の影響を受けたアメリカンスタイルの洋館を建てるまでに‥ まだまだ語り尽くせないお話が沢山あります。 膨大な手紙や写真の数々を、現在プロジェクトの 資料班がジグソーパズルの様に繋げる作業をしています。(順次お知らせ予定)
明治後半から大正初期にかけて日本人が海外へ多く進出したという時代に,二人を乗せた大船は‥記憶の旅へと今再び出発した様です。
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